猫が謀反人と化す。



 同居人を噛むという行為は、本来なら許されざる、断罪されて然るべき大罪である。市中引き回しの上、晒し首が相応である。もしくは完全に絶命するまで意識が途切れない薬品を投与したのち、あまり鋭くなくぎざぎざのついた槍での磔刑である。安寧とした平和に飽き足らず、保護者に歯向かうなどとは、由井正雪か王莽といったレベルの大逆であるのだ。

 しかし僕は、僕の治める皇国内においては、ヨシカゲが僕を噛むことを許可する法令をこのたび発令・施行した。

 むしろ、噛まなくなったときを僕は危惧している。噛むということは、ヨシカゲが未だ野生を忘れていない証左である。外敵がおらず雨風をしのげ、気温が保たれ、えさに不自由しない家に起居し、平穏と静穏を貪りつつも、尚、常住坐臥、戦場を忘れてはいないということである。頼もしい限りではないか。

葉隠』に云う。佐賀藩鍋島勝茂公は、刺客、謀反に備え、夜ごと佩刀を改め、眉毛にて切れ味を試してから床についたという。毎夜、酒を嗜んだが、酔って床に入ることは無く、完全に覚ましてから着いたという。ヨシカゲが夜ごと僕を噛むのも、まさに勝茂公と同じ考えであるといえよう。牙を錆びさせず、かつ、戦闘の勘を忘れまいとしているのだ。断じて僕が嫌いだからではないのだ。




 野良の時代に色々あったのだろう。僕への信頼は揺るぎないものと信じたいが、「イレギュラーはいつだって存在している」ということを、ヨシカゲは知悉しているように思える。「自分はいつまで暖かいところに居ることができて、いつまでえさをもらえるか分からない」と察知しているのだ。多分。その危惧は恐らく正しい。

 だいたい、僕は相当ぐうたらに適当に生きている人間である。いつ生活に困窮し餓死するか分からない。いつネットに迂闊なことを書き捕縛されるか分からない。いつ公の場で民主党の悪口を言いガス室送りされ、一人ライフ・イズ・ビューティフルの後半状態になるか分かったものではないのだ。

 僕が死ぬのは別に良い。いや、良くはないが、まあ、仕方のないことだ。問題なのは、その際、ヨシカゲはまたひとりぼっちになってしまうことだ。

 僕がヨシカゲを拾った秋の夜、ヨシカゲは深夜の公園で佇んでいた。毛並みは良く、食べるものに困った形跡は見られなかったため、公園に住んでいる人や、近所の人から、可愛がられてはいたのだろう。

 だけれど、夜はひとりぼっちだったのだ。秋の寒空の下、じーっと震えていたのだ。立ち止まった僕の足下にすりより、遊んでほしそうに鼻をこすりつけて来たときの寂しそうな姿を、僕は忘れることができない。

 今、ヨシカゲは僕の胡座の上ですやすや寝ている。あのときのような寂しい思いを、二度とさせるわけにはいかない、と誓っている。

 しかしながら、生命の消失ばかりは、誓ったところでどうにもならない。人など、瓦が落ちてきても死ぬし、増水した河川を見に行っても死ぬのだ。僕が生きている間は、ヨシカゲを万難を排し守り抜こう。されど、何らかの理由で僕が死に、ヨシカゲを保護できなくなった場合、彼はまた野に戻ることになる。そのときのために、野生は保持しておいたほうが良いのだ。




 そんなこんなで、今回の新法案の貴族院通過と相成った次第だ。このため、散々に引っ掻かれ、手と腕は既にぼろぼろで、大小二十を数える傷に覆われているが、ヨシカゲのためなので一切苦にならない。

 ただ、今は長袖で覆われているので良いのだが、夏となり薄着になった際が困りものである。街行く民衆に「見て見て、あの人、もうおっさんなのにリストカットの痕がたくさんよ!」などと奇異の目で見られることを思うと、多少暗澹たる気持ちにはなるが、まあヨシカゲのためである。良しとしよう。